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N.W.A.特集パート1 / いま振り返る西海岸ヒップホップ・レジェンドの軌跡

N.W.A.の伝記映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』、ついに日本上陸。そして、N.W.A.のアルバム3作が揃って、歌詞・対訳初収録で日本リリース。そんな2015年末こそ、ヒップホップの流れを変えたN.W.A.の軌跡を振り返るべきタイミングだろう。2回にわたってお届けするN.W.A.特集。第1弾は、リアルタイムで彼らの動向を見つめてきた長谷川町蔵が書きおろす、N.W.A.ヒストリーだ。

文/長谷川町蔵

この2015年こそが、日本における「N.W.A.元年」なのだ

アフリカ系アメリカ人が横暴な白人警官によって死に至らしめられながらも、当の警察官たちは不起訴に。これに抗議する運動が起き、幾つかの街では暴動にまで発展した。2014年にミズーリとニューヨークで立て続けに起きたこうした出来事は、アメリカ人に否が応でもある事件を思いださせた。スピード違反を犯しただけのアフリカ系アメリカ人ロドニー・キングを集団リンチしたLAPDの白人警官たちが不起訴になったことをきっかけに、1992年に発生したロサンゼルス暴動だ。この暴動を音楽の力で扇動したと言われたのが、ヒップホップ・グループ N.W.A. (Niggaz Wit Attitudes)だった。

そんな彼らの栄光と離散を描いた劇映画が、F・ゲイリー・グレイ監督による『ストレイト・アウタ・コンプトン』だ。映画は2015年8月にアメリカ本国で公開されると大ヒット。音楽伝記映画としてはハリウッド史上最大のヒット作となった。

ヒットの要因は、映画が前述した「警察によるマイノリティへの暴力」を問い直すような作りになっていたこと、有名エピソードの数々が忠実に映像化されていたことにある。本作を観て、トップ・プロデューサーにして現在Apple Musicを統括するビジネス・エクゼクティブでもあるドクター・ドレー(Dr. Dre)と、人気俳優のアイス・キューブ(Ice Cube)がこのグループ出身だったことを初めて知って驚く人もいるはず。しかもリーダーは二人のいずれでもない元ドラッグの売人で、既に故人という凄まじさなのだ。

「そんなトンデモないグループの活躍をリアルタイムで追いたかった」そう口惜しむ若きヒップホップ・ファンもいるかもしれない。でも当時を知る者として断言しておこう。N.W.A.が現役だった時代に日本で彼らが話題にのぼることなんて殆ど無かったということを。つまり、映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』の公開と、N.W.A.関連の3枚のアルバムが歌詞・対訳初収録でリリースされた2015年こそが、日本における「N.W.A.元年」なのである。

それではアメリカ本国における「N.W.A.元年」とはいつだろうか? おそらくそれは1986年だ。場所はカリフォルニア州コンプトン市。隣接するロサンゼルス市のサウスセントラル(現サウスロサンゼルス)で誕生したストリート・ギャングのクリップスとブラッズが縄張りを競いあっていたこの街の犯罪率は、当時全米トップクラスに達していた。

そんな危険な街のストリートでドラッグを売りさばいていたイージー・E(Easy E,  64年生まれ)は音楽ビジネスへの参入を決意する。彼が向かったのは繁華街にあるナイトクラブ[Eve After Dark]だった。店のオーナー、アロンゾ・ウィリアムズ(Alonzo Williams)はワールド・クラス・レッキング・クルー(World Class Wreckin’ Cru)なるエレクトロ・ヒップホップ・グループを率いて活動していることで知られていたが、このグループのサウンド面を支えていたのが、店のDJとして働いていたドクター・ドレー(65年生まれ)とDJ・イェラ(DJ Yella, 67年生まれ)だったのだ。

ニューヨークでは既にランDMC(Run DMC)の天下が訪れていたため、自身もこうしたヒップホップを作りたいと思っていたドレーは、サウスセントラルに住む従兄弟のサー・ジンクス(Sir Jinx)が結成したグループ、C.I.A.の面倒を見ていた。リード・ラッパーは成績優秀な高校生でありながら、過激なリリックを書かせれば敵なしのアイス・キューブ(69年生まれ)。だがこうした活動は理解されず、ドレーには鬱憤が溜まっていた。

そんな時、イージーが声をかけてきたのだ。彼は自主レーベル、Ruthless Recordsを設立すると、そこからリリースするシングルに、ドレーからビートを、キューブからリリックを提供してもらう約束を取り付けた。この時点ではイージーは単なるレーベル・オーナーだったが、セッション中にイージー自身がラップすることに。これが彼のソロ・シングル“Boyz-N-The-Hood”となった。シンセのフレーズこそエレクトロの残り香が漂うものの、同時代のDef Jam Recordsの傑作群を彷彿とさせる強靭なビートと、キューブが書いた物語調のリリック、そしてイージーのチンピラ感満載のラップが詰め込まれたこの曲には特別な魅力があった。

さらにイージーはアラビアン・プリンス(Arabian Prince, 65年生まれ)、前述のDJ・イェラ、MC・レン(MC Ren, 69年)らを引き込んでN.W.A.を結成し、1987年に3曲入りEPをリリースする。しかし“8 Ball”と“Dope Man”が、“Boyz-N-The-Hood”の延長線上にあるナンバーなのに対し、リード・トラックの“Panic Zone”はアラビアン・プリンス主導のエレクトロ調。リリックにはクレイジー・ディー(Krazy Dee)やロン・デ・ヴー(Ron-De-Vu)といったラッパーの名も飛び出すことでも分かる通り、当時のN.W.A.は音楽性もメンバーも不定形の存在だった。

この時期のシングルをコンパイルしたのが『N.W.A. And The Posse』だ。ドレーがプロデュースしていたダラス出身のフィラ・フレッシュ・クルー(Fila Fresh Crew)の音源も含んだこのアルバムは、エレクトロからギャングスタ・ラップへと移り変わる転換期の西海岸ヒップホップを記録した第1級のドキュメントでもある。(→ P2に続く)