bmr

bmr>ARTIST db>Jazze Pha

ARTIST db

Jazze Pha

ジャジー・フェイ

アトランタを拠点に活動し、2000年代サウス・サウンドを代表するプロデューサーのひとりであり、シアラ(Ciara)を世に送りだした人物として知られる。本名はファロン・アレクサンダー(Phalon Alexander)で、父親は60年代から活躍するファンク・バンド=バーケイズ(Bar-Kays)のベーシストであるジェイムズ・アレクサンダー(James Alexander)。

ジェイムズ・アレクサンダーと歌手のデニース・ウィリアムズ(Denise Williams)のあいだに生まれる。母親は、“Free”で有名なデニース・ウィリアムズ(Deniece “Niecy” Williams)とよく混同されるが、別人。ファロンという名前は、バーケイズのメンバーで、オーティス・レディング(Otis Redding)らも亡くなった1967年の飛行機事故でこの世を去ったファロン・ジョーンズ(Phalon Jones, Jr.)に由来するという。

1990年にElektra Recordsから「ファロン」名義で『Rising To The Top』をリリースし、アーティストとしてデビュー。グラウンド・ビートやニュー・ジャック・スウィングに影響されたサウンドに乗せたラップや歌を聞かせていた。当時あまり注目された作品ではなかったが、後にニューヨーク・ハウスの重鎮トニー・ハンフリーズ(Tony Humphries)による2003年のコンピレーション『Choice : Collection Of Club Zanzibar Classics』に“Dance Floor Of Life”が収録されるなどカルト的な再評価を受けた。

『Rising To The Top』リリース後は裏方に転向し、プロデューサーとして90年代半ばからクール・エース(Kool Ace)やMCブリード(MC Breed)といったラッパーたちを手がけ始めていく。90年代後半からはR&B作品も手がけるようになり、LSGの“Let A Playa Get His Freak On”(97年『Levert – Sweat – Gill』収録)、TQ “If The World Was Mine”(98年『They Never Saw Me Coming』収録)、テリー・デクスター(Terry Dexter)“Better Than Me”(99年『Terry Dexter』収録)、トニ・ブラクストン(Toni Braxton)“Gimme Some”(00年『The Heat』収録)とプロデュース作を増やして注目を集めていった。

転機は2001年、リュダクリス(Ludacris)の“Area Codes”で、これが全米チャート最高24位、全米ラップ・チャート最高7位のヒットを記録。同年にはT.I.のファースト・アルバム『I’m Serious』などに関わったほか、ジャジー・フェイ名義で自身久々の新曲“We Still”/“Playboy”をNoontime/Atlanticからリリースしていた。

翌年にはフィールド・モブ(Field Mob)の“Sick Of Being Lonely”が全米チャート最高18位、全米ラップ・チャート最高5位のヒットを記録。さらに2003年にはバウ・ワウ(Bow Wow)“Let’s Get Down”が全米チャート最高14位とヒットとなるなどアトランタの若手プロデューサーとして地位を確立していった。

そして2003年には自らが立ち上げたプロダクション Sho Nuffの所属アーティストとしてシアラ(Ciara)がLaFaceと契約し、2004年にデビュー。デビュー曲“Goodies”がいきなり全米チャート1位を獲得したほか、ジャジー・フェイ自らが手がけた“1, 2 Step”も全米チャート最高2位まで上昇するなどいきなり大ブレイクを果たす。また2004年はリル・ウェイン(Lil Wayne)、ネリー(Nelly)、アンジー・ストーン(Angie Stone)らのプロデュースでも脚光を浴びた。

以降もシアラ“Get Up”(全米チャート最高7位/2006年)、フィールド・モブ+シアラ“So What”(全米チャート最高10位/2006年)といったヒットを飛ばしている。