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RUN D.M.C.

ランDMC

クィーンズ出身のラン(Run / Joseph Simmons)とDMC(Darryl McDaniels)、DJのジャム・マスター・ジェイ(Jam Master Jay / Jason Mizell)による3人組のユニット。80年代初期、ランが高校在学中に兄ラッセル(Russel Simmons)がDMCとのラップデュオ結成を促し、”ラン・D.M.C.(Run D.M.C.)”と名づける。’82年に高校を卒業すると、ジャム・マスター・ジェイをDJに迎え、’83年にセンセーショナルなデビューシングル”It’s Like That” / “Sucker M.C.’s”をリリース。翌年には”Hard Times”や”Rock Box”等のヒットシングルを収録したデビューアルバム”Run D.M.C.”(’84)をリリースし、ゴールドアルバムに認定される。’85年にリリースされた2ndアルバム”King of Rock”もタイトル曲”King of Rock”や”You Talk Too Much”等の大ヒットに恵まれ、初のプラチナムセールスを記録し押しも押されぬヒップホップ / ラップ界のスーパースターの座に近づいていく。

プロデューサー、リック・ルービン(Rick Rubin)の手腕により、かつてのラップグループには無かったロックサウンドとの融合がグループのアイデンティティを高めていくと、1986年にリリースされたシングル”Walk This Way”でのエアロスミスとのカヴァー・コラボレーションで一気に全世界的なヒットを手中にする。同年にリリースされた3rdアルバム”Raising Hell”も300万枚を越す大ヒットを記録。”Walk This Way”や”My Adidas”と言ったヒット曲が収録されている中にも、”Peter Piper”等のヒップホップクラシックが収録されており、全曲を通じて3人を表現するというトータルコンセプトが完成されているアルバムである。

続く1987年にリリースされた4thアルバム”Tougher Than Leather”では、よりエッジをヒップホップサウンドに寄せ、”Run’s House”や”Mary, Mary”、”Beats to the Rhyme”等のヒップホップクラシックを多数収録。セールスのピークは前作で終えてしまったものの、ヒップホップリスナーにとってはやはりクラシックアルバムとなっている。その後はシーンのトレンド移り変わりが激しくなり、’90年に5thアルバム”Back From Hell”のセールスも落ち込むと、DMCのアルコール中毒問題やランのレイプ疑惑による起訴などのトラブルが持ち上がる。が、結果DMCも中毒から脱出し、ランも不起訴処分になり、’91年にはコンピレーションに提供していた”Christmas In Hollis”や”Together Forever(Krush Groove 4)”を含むベストアルバムをリリース。

’93年にリリースされた6枚目のオリジナルアルバム”Down with the King”では、旬のプロデューサーであったピート・ロック(Pete Rock)やQティップ(Q-Tip)らがプロダクションに参加し、多数のベテラン・新進気鋭のアーティストがゲスト参加をした、タイトル通りの内容で復活を図るも、評価は厳しくゴールドアルバムどまりのセールスとなった。それからシーンの前線から遠のいてしまうが、2000年にオリジナルアルバムとして7枚目の”Crown Royal”でグループとして再集結。”Queens Day”や”Let’s Stay Together (Together Forever)”、”Simmons Incorporated”等がミックステープやラジオなどでプレイされ、2002年にはエアロスミスのツアーに参加するなど、オールドスクール再考のムーブメントも手伝い今一度再起を狙うのだが、ツアー終了後の2002年10月30日、スタジオワークをしていたジャム・マスター・ジェイが銃撃され他界した。その後のランとDMCの活動は決して派手ではないものの、二人だけのライブセッションや客演などを勤めており、デビューから20年経った今も現役として活動している。

なお彼等は映像でもその活動を見ることができ、映画”Krush Groove”(’85)や4thアルバムと絡めたフィルムプロジェクト”Tougher Than Leather”、Def Jam企画のヒップホップドキュメンタリームービー”The Show”等に出演している。他方では、ジャム・マスター・ジェイはオニクス(Onyx)等の新人を発掘し、自身のレーベルJMJ Recordsからデビューさせるプロデュース業も行っていた。50セント(50 cent)もジャム・マスター・ジェイの世話になっていたのは有名な話である。